福岡県宮若市にある力丸ダムは、県内でもそこそこの貯水量を誇るダムで1959~1965年にかけて建設された。
かつてはダム湖の周辺にスケート場などのレジャー施設もあり大いににぎわったようだが、
現在はどれも閉鎖されており無残な廃墟を残すのみとなっている。
夫婦木集落のように水没を逃れた集落があるが、いくつかの集落は水没のため離村を余儀なくされた。
今回紹介する小川集落跡もそれらの中の一つである。
"小川 二十一戸" との記載がある。
「若宮町誌」には水没前の集落の周辺図が載っており、それによれば民家の他、バス停や公民館、大山祇神社があった。
今回探索の際には、かつてこの小川に住んでいたという方から話を伺うことが出来た。
以下にその内容の一部を記す。
・小川の読みは「コガワ」
・ダムが出来る前は家は16軒あった
・集落の中で一番上の方にはお墓があった 今はそのあたりは道路になっている
・ダム建設の際、移転の為に墓を掘り起こして遺体を焼き直した
この時、甕に入った遺体の中には髪の毛が残っていたものもあったという
また、甕にはかなりの水が溜まっていた
・上記の墓の他、一番上の方にあった家の辺りも道路となった
・小学校は中畑(現若宮南小学校か)、中学校は山を越えて脇田の中学校に2年間通った(元住人の方の年齢から考えると旧吉川国民学校?)
・小川の住民のうち、2軒以外は八幡や若松、若宮に移転した
深山幽谷の地とはいえ、小川集落には昔からそれなりに多くの人が住んでいたことが伺える。
ダム建設に伴う墓の移転については、南畑ダムの建設の際にも似たような話がある。詳しくはこちらのページを見ていただきたい。
(本文pdfの、網取、道十里集落での聞き取りを参照。)
また中学校に関しては、靴が無かったが為にワラ草履を自分で作って通ったとのこと。平成の世に生まれた自分にとっては想像もつかないような話であった。

米軍によって1947年に撮影された航空写真。多数の家屋が確認できる。

力丸ダム建設後の1975年に撮影されたもの。
ダム建設後も集落跡地の大部分は水没を逃れているものの、家屋の痕跡はほとんど残っていない。

上の写真のようにその跡地には瓦礫のようなものが積まれており、集落を偲ばせるようなものはほとんど残っていない。
なお跡地の一部はダム建設による付け替え道路の敷地になったようだ。

堆積した瓦礫はもしかするとここが原因なのかもしれない。



耕地跡は増水時には水没するのか、水が溜まってぬかるんでいるところもあった。
ちなみに若宮町誌にはタチヤナギの群落として、水没後のこの地が紹介されている。

この八木山川の源流はさらに数km上流の八木山高原までさかのぼる。
そういうわけで、流れる水量もそれなりにあるように見える。

この地は力丸ダムの堰堤からはかなり上流にあるため
川の流れなどはダム建設前とあまり変わっていないのではないかと思われる。
かつては対岸にも田畑が広がり数軒の民家が存在していた。


石垣は集落が存在していたことをひっそりと証明し続けている。
