糸島市 水無集落

糸島市の廃村 水無集落跡 #

探索日 #

  • 探索日 : 2019年2月, 2021年11月
  • ページ最終更新日 : 2022年5月28日

水無集落跡 #

糸島市の南東部、福岡市と佐賀県の境に近い山奥には「水無鍾乳洞」という鍾乳洞がある。 同じく福岡県内の平尾台鍾乳洞などと比べると知名度は劣るが、 2005年に福岡西方沖地震が発生するまではこちらも入ることが出来た。 一方でここにはかつて人が住む集落があったことはほとんど知られていない。
それが今回紹介する水無集落跡である。

かつての集落 #

1700年ごろ編纂された「続筑前国風土記」にこの集落について記述がある。 江戸時代後期?に編纂された「筑前国続風土記拾遺」には

・民屋三戸男女十三人、寛文の頃開墾された
・窮谷にて寒気が早く訪れるために穀物の成熟が不十分であること
・炭を焼き、夏には焼畑を行う事
・火縄を作る事においては国中(当時の筑前国であろう)第一であること
・産神社があり大山祇命御歳神を祀れること

などが記されている。 明治初期編纂の「福岡県地理全誌」には瑞梅寺村中の一集落として

水無原 五戸

の記述がある。 福岡市の野河内集落の方の話では、

・戦後までは女性が一人で住んでいたが糸島の方に転出
・かつてはもっと家があったかもしれない
・水無に神社などは無かったように思う
・離村まで電気等は来ていなかった

とのこと。

地名について #

ちなみに先述の通り集落跡の上流には水無鍾乳洞が存在する。 このために集落上流部で川(室見川)の水は一時的に伏流となり、枯れ川のようになっている。 「水無」という地名もこれが由来なのだろう。 余談だが、前述の続筑前国風土記や福岡県地理全誌には鍾乳洞についての記述はない。 鍾乳洞が発見されたのはそれよりも後の時代になってからではないだろうか。 もしそれが正しいとすれば、

鍾乳洞の為に川が伏流になる
→ 人間がそれを見つけ「水無」という地名が成立
→後に鍾乳洞が発見されて付近の地名から「水無鍾乳洞」と名付ける

といったような変遷をたどったと思われる。 だから何だよと言われれば元も子もないが、 地名と地形の関わりを表す例として個人的には面白いと思った。

2021年再訪 #

こちらのサイトで水無集落の元住民の方の話が紹介されていた。 最近になって元住民の方の孫や山の会の方々によって、整備・ゴミ拾いが行われているらしい(参考)
今までの探索で見つけられなかった庚申塔や屋敷跡が存在していたらしく、気になったので3度目の探索を行った


集落の現状 #

集落跡へのアプローチ #

井原山集落からの上り 水無集落へは野河内集落から谷を遡上するルートと、井原山から山を越えて至るルートがある。 今回は後者を選んだ。 井原山集落から写真のように舗装された林道が続いており、 水無集落の上流部辺りまでは自動車でも到達できる。(かなりの急勾配であるが)

水無への峠 井原山集落から水無へ越える峠。 林道が峠から谷を遠巻きに迂回して高度を稼ぎつつ谷まで下るのに対し、 かつて集落が現役であった頃の道は峠から谷をそのまま下っていく。 後者の道は林道の建設と荒廃によって廃道となっている。

水無集落 橋跡 峠から谷を下っていくと集落跡に到達する。 古い地形図にも川を渡る橋が描かれているが、 現地でも写真のような橋跡を見つけることが出来た。 車を一台通せる程度の幅を持っているが、かつてここまで車が入ったかどうかは不明である。

枯れ川 橋より上流にはほとんど水は流れていなかった。 なるほど水無である。

集落跡地 #

右岸の屋敷跡 古地形図で見る限り家屋はこの橋付近に位置しており、 橋を渡った川の右岸には2軒の家が表記されている。 現地においても屋敷跡ではないかというような平場を発見できた。

右岸の道 住民が幾度となく通ったであろう家屋の前の道も
今では風化して当時の面影をしのぶことは難しかった。

左岸の屋敷跡 川の左岸にあった屋敷跡。

左岸 墓跡? この左岸の屋敷跡にあったのは墓地だろうか。 墓石自体は見つからなかったものの、 画像の特徴的な形の石や食器などからそう思った。

何かを祀った場所 家屋跡から数十mほど東には数本の巨木が屹立している場所がある。 かつては何かを祀っていたのかもしれない。 あるいは上で説明した大山祇神社があったのかもしれないが、 残念ながらそれを確定させるものは見つからなかった。

猿田彦 神社跡は発見できなかったが、猿田彦を発見(発掘)することができた。

謎の石 この付近では「王丸 井上」と刻まれた謎の石を見つけた。 形や穿たれた孔など、墓石にしては奇妙な点が多い。 ちなみに王丸というのは水無集落から4~5km北にある集落の名前である。

耕地跡 #

壊れた林道 井原山集落から水無集落の上流までは舗装された林道が開設されている。 実際には更に野河内集落まで道は存在するのだが、未舗装の部分があり路盤が崩壊している箇所もあった。
ちなみにこれらの林道は離村後に建設されたもので、それほど古くはない。 それでは林道開設以前、人がまだ住んでいた頃はどの道を通っていたのかということだが、 今の地形図では点線で描かれている、川の左岸沿いの道がそれであるようだ。

右岸の道 左岸の道は藪に覆われ自然に還りつつあった。 ただ一車線分程度の道幅はあり、かつては車も通れたのだろう。 なお南側の山を越えて佐賀県の新村開拓へ行く小路については未探索。

開けた耕地跡 開けた耕地跡。ただ油断しているとイバラが容赦なく体に突き刺さってくる。

2021年再訪 #

集落跡の小道 さすが整備されているらしく、前回よりも歩きやすかった。 美しい11月の廃村風景であった。

屋敷跡1 屋敷跡2 立派な屋敷跡の石垣。前回の探索でこれほどの遺構を見逃していた無能がいるらしい。

庚申塔 庚申塔には「明和九年」の銘があった。西暦になおすと1772年である。

観音様  屋敷跡の近くにあった小さな観音様。

墓地 放置された墓地も発見できた。 墓石の一つには「天和二年(1682年)」のものがあり、集落の開墾が寛文年間(1661~1673)であることを考えると 集落最初期の住民の墓ということになる。もしかしたら開墾を行った人々の一人なのかもしれない。