那珂川町の廃村 前峠と脊振山坊への峠道

那珂川町の廃村 前峠と脊振山坊への峠道 #

探索日 #

  • 探索日 : 2018年12月
  • ページ最終更新日 : 2022年5月28日

脊振山の山坊 #

脊振山は福岡県と佐賀県の県境に位置する標高1055mの山であり、山頂には背振神社の上宮や自衛隊のレーダサイトが存在する。
脊振山を含む尾根は九州自然歩道のルートの一部となっており登山者にとってもポピュラーである。
一方で、8世紀ごろには上宮の東門寺、さらには日本での茶栽培発祥の最有力地である中宮の霊仙寺が建立されたのを始めとして 山岳信仰の霊地として栄え、一時は脊振千坊とも360もの山坊があったともいわれている。
時代が下り戦国時代に入るとこれらも戦火を被り衰退してしまった。

かつて使われた参拝道 #

福岡から脊振山の麓へは那珂川に沿って行く道(現在の国道385号とほぼ同じルート)を通ることもあったであろうが、 それとは別に那珂川市の不入道あたりから成竹山の西側を通って山を越え、板屋に下るルートもあった。 これは距離的には最短であり、山岳信仰が盛んであった時期には脊振山への参拝に使われたという。
現在この道は廃道となり、地図にも記載されていない。
今回は道の跡と、道沿いにあった前峠集落跡、そして中村山荘跡を探索した。

歴史 #

明治初期に編纂された「福岡県地理全誌」では

前峠 三戸

の記述がある。 また、この辺りの山林を管理している方にお話を伺うことが出来た。 他では手に入れられないような貴重な情報や、中村山荘付近の詳細な地図なども見せていただいた。
ありがとうございます!
得られた情報をまとめると以下のようになる。

前峠集落跡について

・かつて家は2,3軒あった(前田姓
・昭和初め頃、別の場所に移り住む
・その後、別の方(築地姓?)の方が集落跡の土地を買い、一軒住み始める
・昭和40年頃?、その方も下山する。その頃までは今のような林道は無く、獣道のような道しかなかった。

中村山荘跡について

・大正ごろ建築された。終戦までは建物があった。
・もともと中村家が持っていた山林を、終戦後に県と共同で管理することになった
・かつては芸者を籠に乗せて、寺倉集落から山荘まで運んだという。

峠道について

・前述のとおり、脊振山坊への最短の道としてかつて使われていた。
・「寺倉」は寺の米倉があったこと、また「前峠」も脊振山へ行く際に越える峠であることが由来ではないか。
・集落跡だけでなく、峠道自体も「前峠」という。
・峠には石仏があり、石仏ともいわれる

このほか、早良区板屋集落の方によると幼少期にこの峠を越えて不入道の共栄橋(今もバス停がある)まで歩いたという。 この時、前峠の辺りには田んぼの他、一軒の空き家があったとのこと。 もっとも今ではこの道を通るものはほとんどいないという。


前峠集落跡 #

家屋跡 擬定地 家屋があったと思われる場所はちょうど現在林道が通っている場所と重なっており、 林道建設に伴い家屋の跡地も消滅してしまったと思われる。 写真の石垣は一見古そうだが、林道に沿っている時点で当時のものではないだろうと推測される。

石垣 林道から逸れたところではいくつかの石垣や人工的な平地が発見できた。

炭焼きの跡 炭焼きのための窯の跡。

バイク教習場跡地 バイク教習場跡地2 この地にはオートバイの教習場があったが、長くは続かなかったという。その跡地。 集落が無住になったのち林道の建設が行われたためアクセスは容易になったが、当時の様子はわかりづらくなっている。
全体的に遺構に乏しい印象であった。
余談だが野犬を林道や教習所跡地で見かけた。もしここに行く場合は注意が必要だろう。(ニホンオオカミの生き残りかと思った…)

脊振山坊への峠道 ~前峠集落跡から中村山荘跡まで~ #

成竹山 登山口 集落跡から登って行くと林道の終点が現れる。ここは広場になっており車でここまで来ることもできる。 成竹山の登山口にもなっておりここを訪れる人も少しはいるようだ。 中村山荘跡や峠までは途中まで登山道を上ることになる。

中村山荘跡 #

中村山荘跡1 中村山荘跡2 中村山荘跡3 中村山荘跡4 中村山荘跡5 中村山荘跡 石段 中村山荘跡地は成竹山の西方、標高500~520mの範囲にわたって存在しており、 2m以上の高さの石垣や路、石段、さらには展望台と思しき敷地を発見した。 展望台については現在は木々が茂り景色は見えなかったが、往年は那珂川町や博多まで見渡せたと思われる。

中村山荘跡 石橋 小さな沢を渡る石の橋。

中村山荘跡 畳の縁? 地面に落ちていた畳の縁(?)。

中村山荘跡 巨大石碑 初めて見た方ならば恐らく必ず驚くであろう巨大な石碑。下にあるクーラーボックスと対比すればその大きさがわかるだろう。
このような巨大な人工物が人気のない山の中にたたずむ様には、言葉にできない恐怖のようなものすら感じる。

石碑に書いてある文章は以下の通り。

株式会社中村作商店
取締役社長	中村作次郎
取締役		藤林貞
同		木下平蔵
同		林茂丸
監査役		中村褌廣
同		篠原徳兵衛

中村家植林之碑
當會社々長中村作次郎ハ郡内三宅村老司二生レ
明治参拾参年三月獨力ヲ以テ穀類問屋開業以
来拮据□(経?)營逐年其基礎ヲ固メ大正八年拾弐月
組織變更シテ當會社ヲ形成セリ
大正拾四年五月當會社ハ社長生誕地ノ縁故ヲ
以テ中村家ヲ紀念セン爲メ□二筑紫郡ガ日露
戦後紀念トシテ経營セシ當山林ヲ金八萬三千
圓ニテ譲受ケ同家ノ経營二授シ爾後山荘建築
植林乎入等二金参萬六千圓ヲ投ジ五十年後ノ
輪伐計畫二向テ總テノ経營ヲ進メリ
面積百参拾五町歩南畑村大字成竹南面里地内字
前峠ガクメキ大丸黒谷観音岳ヨリ成竹最高峰
海抜貳千尺土質良好ニシテ全林地概ネ造林二
好適セリ栽植セシ樹木ハ杉参拾参萬本檜拾貳
萬本□リ地域ハ北五里ニシテ福岡市東北四里
ニシテ雑餉隈二至ル
昭和五年三月中村家□□□拾年記念識之

(□は判別できなかった文字)
中村作次郎氏とその会社、そして大正十四年に山荘を建築して植林を行った事が記述されている。
注目すべきは後半に出てくる「前峠ガクメキ大丸黒谷観音岳」だろう。これらは付近の小字である。
「前峠」はもちろんのこと、「大丸」についてもほぼ情報の残っていない大丸城の一種の"遺構"とみることが出来る。 もっとも地名が先なのかもしれないが、そうであったとしても数百年前からの地名がこの山中に残っていることは驚くべきことと言える。
なお、この写真ではわかりづらいが石碑の上部に石仏のような構造物が立っている。

中村山荘跡 巨大石碑 上部1 中村山荘跡 巨大石碑 上部2
この石仏?を近づいて撮影したもの。
石碑本体の建設が昭和5年であるにしては風化しすぎている気もするので、 もともと仏ではなく何らかのシンボルだったのかもしれない。
山林の管理者の方が仰っていた石仏をこの地に移転したという可能性も考えられる(もしそうだったら個人的にものすごく嬉しい)が、真実は不明である。

脊振山坊への峠道 ~中村山荘跡から峠まで~ #

成竹山頂上との分岐 中村山荘を後にし、さらに登って行くと成竹山頂上への登山道との分岐地点が現れる。 左にいけば成竹山頂上。峠へは右折する。

「中作」と彫られた境界杭 「中作」と彫られた、このようなコンクリートの杭を道中でいくつも見つけることが出来た。 同じようなものを大丸城址の探索時にも発見した。「中作」というのは 「中村作次郎」のことであり先の中村山荘を建設した人物でもある。これは土地の境界を表しているのだとか。

峠への道中1 峠への道中2 もはや通行者は前述の方を除けば皆無と言ってもいいような道だが、それなりに道跡はしっかりしていた。

古い瓶 側面 古い瓶 底面 道に落ちていた空き瓶。底面には「三ツ矢」のエンボスが確認できる。   インターネットで調べたところ「三ツ矢シャンペンサイダー」という商品の瓶に似ていることが分かった。 これは1909年に発売が開始されたようだが、いつごろまで製造されていたのかは不明。 参考
戦前から戦後直後ではないかと推測され、かなり古いものと思われるが…

峠頂上 峠の頂上付近。あまり峠を意識させるものは無く通常の尾根のようであった。 ここでは石の仏などは残念ながら見つけられなかった。板屋方面の道は未探索である。