佐賀県の廃発電所 川上川発電所 #
探索日 #
- 探索日 : 2019年2月、6月
- ページ最終更新日 : 2019年10月7日
雄淵雌淵 #
雄淵雌淵(おぶちめぶち)は佐賀県の嘉瀬川流域にある渓谷で、 奇岩や巨岩の織り成す景観や紅葉の名所として知られる観光地である。 一方で今から100年以上も前、この地に水力発電所があったことはほとんど知られていない。
発電所の歴史 #
1968年出版の富士町誌には、「鮎の瀬発電所」として記述がある。 だが広滝発電所(広滝第一発電所)の建設年など、町誌の内容には誤りも多い。 一方で「九州地方電気事業誌」及び「東邦電力史」はより詳細な情報が記載されていた。 記述をまとめると以下のようになる。
・明治35年10月(1902)
波佐見鉱業株式会社が鉱山専用の古湯発電所として建設。
11kVで長崎県と佐賀県の県境付近になる鉱山まで送電していた。
当時九州第一の高電圧送電の記録を持ったという。
・明治43年5月 (1910)
九州電気株式会社(同年、広滝水力電気と合併)に買収され、川上川発電所となる。
・明治44年 (1911)
増設工事が行われ最大出力が1050kWになる。
・明治45年6月 (1912)
九州電気は博多電灯軌道と合併し、「九州電灯鉄道株式会社」となる。
・大正7年 (1918)
最大出力900kWに引き下げられる。
その後、東邦電力、日本発送電に引き継がれて九州電力に継承される。
・昭和28年12月 (1953)
廃止される。
今回紹介する発電所が川上川発電所(建設当初は古湯発電所)と呼ばれていたことがわかる。
なおここでの川上川発電所は、同じく川上川流域に存在する川上川第一~第五発電所とは別物である。(これらも相当に古いものではあるが…)
広滝発電所は、広滝水力電気が明治41年(1908年)に建設した発電所で、川上川発電所と共にこの地域の発電を担っていた。
前者は現存する九州最古のレンガ造り発電所であり今も現役であるが、
後者の川上川発電所は役目を退いて久しい。
ちなみに「九州地方電気事業誌」によれば、佐賀県で初めての火力発電所は 明治42年6月(1909年)に唐津電灯株式会社によって建設されたものであるという。(1911年廃止) つまりこの川上川発電所は当初は鉱山専用の発電所であったとはいえ、佐賀県最古の発電所ではないかと考えられる。
今も残る遺構 #
発電所は廃止されたものの、水路や堰堤の跡などの遺構を発見できた。 ここでは雄淵雌淵を境として東部と西部に分けて遺構を説明したいと思う。 雄淵雌淵周辺で確認できた遺構は以下のようになる。
この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の電子地形図25000を複製したものである。(承認番号 令元情複、 第216号)
上図において青線が水路である。
雄淵雌淵の東側には堰堤と発電所が存在していた。
このうち発電所については、廃止後に建物は取り壊されたと思われる。現在は国道の敷地となっている。
一方で堰堤は今も構造物が現存している。
また東側では短い隧道(ここでは第一隧道と仮称する)と長い隧道(第二隧道と仮称)の二本の隧道も発見できた。
後者は雄淵雌淵を貫いているものと思われる。
雄淵雌淵の西側については、古い航空写真よれば雄淵雌淵から古湯集落付近まで続く長い水路が確認できる。
この水路は嘉瀬川に沿って存在しているものの、
現在は国道の改修工事に伴い失われた部分も多いのではないかと思われる。(未探索)
隧道の西側坑口については残念ながら発見できなかった。恐らく埋没したものと思われる。
雄淵雌淵東部 #
発電所跡から堰堤まで #
堰堤跡や隧道からの水路と、水路脇の階段。
古い航空写真ではこの辺りに発電所と思われる3棟ほどの建物が確認できるが現存せず。
現在は国道の敷地となっている。
(写真にも高架橋の橋脚が映っている)。
山側の壁面には、発電所構造物の一部と思われる遺構が残っていた。
堰堤からこの水路を通して発電所まで水を落としていたのだろう。 それなりに幅もあることがわかる。
先ほどの階段をしばらく上ると道は姿を消してしまう。 そのため、九電の管理用通路を通って堰堤まで登った。 この道は古い航空写真でも確認できるため、発電所が現役の当時から存在したものと思われる。 画像は斜面を振り返って撮影したもの。奥に見えるのは現国道である。
導水した水を一時的にためておく堰堤の跡。
堰堤の脇にはレンガ造りの構造物も残っていた。
堰堤の下部には写真のような導水坑が口を開けている。
導水坑は入口から2メートルほど進んだ所で斜め上へと続いていた。
堰堤から第一隧道 #
堰堤からは、水路の行き先を北から南西へと変える。 人が訪れることも無いらしく、かなりの荒れようである。
▼ とんねるがあらわれた!
名称は不明なのでこのページでは第一隧道と呼ぶことにする。
短い隧道だが目立った崩壊は見当たらない。
こちらは反対側(西側)の坑口で、アーチ状の石積みや要石がキレイに残っていた。 ちなみにこの隧道には扁額は見当たらなかった。
隧道内部。水路用とはいえ人が通れるくらいのサイズはある。
第一隧道を後にして、さらに西へと向かっていく。 水路は所々土砂が流れ込んでおり、 既に本来の役目は果たしていない。 また、これらの土砂崩れのために水没している部分もあった。
▼ とんねるはなかま(?)をよんだ!
崩壊を乗り越え水路跡を行くと見えてくる第二隧道(やっぱり仮称)。
アーチを構成する迫石や要石、さらには扁額や笠石などが確認できる。
隧道は水没しており澄んだ水を湛えていた。
なお水面が汚れているのは扁額の苔を削り落としたためである。 (その辺の木の枝で脇からガリガリやった。) この隧道こそが雄淵雌淵を貫く隧道ではないかと思われる。 後述の通り西側の坑口は未発見であり通り抜けは出来ないと思われる。
第二隧道は立派な扁額を持っている。 建設された時代を鑑みれば右から読むのではないかと思われるものの、 自分のショボい語学力では解読出来なかった。(「一」しか読めねえ…)
雄淵雌淵西部 #
雄淵雌淵の西側においても水路の跡を見つけられた。 幅も東部で発見されたものと同じくらいの大きさである。 水路内に木が生えていることからもわかるように、 相当の量の土砂が堆積しているようだ。 だが第二隧道の西側坑口は痕跡を見つけることもできなかった。 ちなみに1948年撮影の航空写真では ここから古湯温泉の辺りまで伸びる水路を確認できるが、 取水口の位置などは不明。