飯場峠

飯場峠 #

探索日 #

  • 探索日 : 2018年4月
  • ページ最終更新日 : 2022年5月28日

飯場峠は、福岡市早良区の飯場集落と金武集落を結ぶ峠である。 この山道は、江戸時代に佐賀と福岡を結んでいた三瀬街道の一部であった。 また、戦前には縣道として指定されていたこともあった。(早良郡誌 全) 現在その峠は福岡と佐賀を結ぶという役目を国道263号に譲るも、福岡県道562号 飯場金武線に指定されている。
…のだが、今は自動車の通行はおろか歩いて通るのも難しい状態になっている。

「早良郡誌 全」後編 p344 より

岸の卯の峠又は宇土峠
曲淵から金武に通ずる山道なるが、今は之を通るもの甚だ少ない。曲淵氏の家臣に、靑木三郎右衛門といふものがあって、
農業を勵み家富み牛馬九十六頭奴婢三百四人を使ひ、野芥・四箇・原などに於いて各八町の田地を耕し尚其の他の
村にも、多大の所有地があったので、耕作や運搬の為に此の道路を開いて往来して居たと言ひ傳へて居るが、
三郎右衛門の墓は、曲淵の北二三町の向なる山上に存して居る。

また、同書付属の郡内地図には県道として描かれ、福岡市の西新町で唐津線(現在の国道202号線か)から分岐して三瀬峠に至る、 県道として紹介されている。 この「靑木三郎右衛門」という人物については以下のような資料もある。

「福岡県地理全誌(六) 早良郡 曲淵村」より

餘田三郎右衛門墓
村ノ北三町向山ニアリ。野石高三尺。銘字詳ナラズ。三郎右衛門ハ、曲淵河内守カ家人ナリ。後ニ農民トナリ其家富メリ。
田畑百六十町。他村ニモアリ。家ノ奴婢三百餘人、牛馬九十六疋モテリ。寛永十六年ニ死スト云。
今村民ニ其支族ノ者アリ。三郎右衛門カ馬具ヲ蔵ス。

飯場峠は古くは 岸の卯の峠、または 宇土峠 と呼ばれていたようだ。 だが大正15年測図の二万五千分の一地形図では、現在の糸島峠に「飯場峠」の表記があり、 現在でいう飯場峠には名称の記載がないというよくわからないことになっている。(昭和11年以降の地形図では現在の位置に飯場峠の記載がある。) 少なくとも現在は峠を飯場峠と呼ぶのは間違いない。(道路台帳にも飯場峠の記載あり)

今回の行程を上の地図に示す。

飯場側から峠まで #

現県道からみた飯場峠入口 県道562号線の始点は県道56号線との交差地点ではなく、県道から西に50m程のところを並行して走る市道との分岐点である。(細かい話ではあるが) この市道は県道56号線の旧道ではないかと思われる。詳しくはこちら。 写真は現県道からみた飯場峠の入口。 下の写真は、この旧道と現道をつなぐ区間の写真である。

旧道と現県道を結ぶ区間

飯場峠と管理用道路の分岐 県道56号線との交差点から少し行くと、目の前にはゲートが現れる。 探索時には勘違いをしていたのだが、この正面の舗装された管理用道路は県道562号線とは関係がない。 三瀬街道及び現県道は、ここを左に曲がることになるのだが…

木橋 まさかの木橋! 車とか絶対通れないよコレ。

沢と化した道 橋(笑)を渡った先では、道が沢と同化していた。 靴を濡らさずに通るのは難しいだろうが、峠を越えた先でも道路が沢に侵食された場所があるので素直に引き返した方がいいかもしれない。 もしこの峠を歩く場合は濡れに強い靴を準備するべきである。

古道っぽい風情ある道 やがて沢と道は分離し、“古道然"とした風情のありそうな道となる。 道幅もそれなりに広く、昔から街道として利用されてきたことがよくわかる。

峠_飯場側より

峠_金武側より 峠に到着。上の写真が飯場側からの眺めで、下が金武側から峠を撮影したもの。 峠には、三瀬街道の案内板が設置されている。(県道であることを示すものは見つからなかった。) 尾根沿いには人が歩ける程度の道があり、もしかしたら登山道などとして使われているのかもしれない。

基礎の遺構 ところで、現在の地形図では峠から東に50mほどの尾根上にごく小さな建造物が描かれている。 1975年の航空写真ではこの場所に巨大な板(?)が建っているのが確認できる。今回探索してみたところ、写真のような遺構を発見した。 同様の遺構は尾根から斜面にかけて数個見つかったが、どういった用途で使用されていたのかは不明。

峠から金武まで #

金武側の道中1 峠から金武側に下っていく。それなりに道幅もあり、途中までは歩きやすい。

放置自転車 なぜか道中に放置されていた自転車。何で…?

陶器 陶器の破片が道に落ちていた。探索時は特に気に留めることもなくスルーしたのだが、後日インターネットで調べてみたところその正体が判明した。

こちらのブログによると、この陶器片は香蘭社という会社によって製造されたもので、 上記のブログで紹介されている碍子と同じタイプのものであると思われる。 どうやら珍しいものらしく、破損しているとはいえ、現地探索時にしっかり観察しておかなかったことが悔やまれる。(便器か何かの部品だと思ってた…)

それにしても、この碍子片はどういった経緯でここに放置されるに至ったのであろうか。 碍子というのは電線に関連して使用される部品であるが、だからといってこの飯場峠に電線が敷かれていたと判断することはまだ出来ない。 単に輸送途中で転がり落ちた(あるいは故意に廃棄された)だけの可能性もあるだろう。ちなみに、現在この道沿いには電線は敷設されていない。

石橋1

石橋2 何度か道は沢を渡っているが、その中には石橋が存在していた。橋脚は石垣で作られていることが見て取れる。 橋桁は短冊状の石材を並べた構造になっているようだが、これはかなり古い時代に作られたもののように思える。 この場所以外では土管を通して沢を渡っており、石橋はこれだけだった(と思う。間違ってたらごめんなさい)。

道と沢 峠から金武に下っていくと、写真のように道と沢が一体化している場所が現れる。 おそらく元々沢を通していた土管などの設備が壊れて、沢の水が道路に流れ出るようになったのだろう。 路盤はすでに流出してしまっており、靴を濡らさずに歩くのは難しい。

側溝跡 さらに下っていくと路盤は復活し、歩きやすくなる。もはや金武までは残り少しとなる。 道路脇にはこのような側溝(と思われる物)が現れるが、いつ頃設けられたかは不明。

広場 この広場までくれば、あとは舗装された道を下っていくだけである。 写真は、金武側から飯場に向かう登り口の広場を振り返って撮影したもの。 中央の掘り下げられた道が飯場峠までの道であり、かつての三瀬街道である。(そして一応県道でもある。) 左側のフェンスで閉ざされた道は林道。

ゲート 舗装された道を歩いていけば車止めのゲートが現れる。貼り付けられた申し訳程度の反射板がステキである。 ここからは普通の県道なので、廃道や旧道が目当てならばここがゴール(あるいはスタート)となるだろう。

金武から飯場までの道路の内、飯場峠付近は「荷車ヲ通セザル部」として大正・昭和初期の地形図には描かれていた。 それが昭和27年発行の地形図では通常の「主要ナル府縣道」として扱われていることから、1930~1950年の間に何らかの道路改修を 受けたのではないかと推測される。前述の土管や側溝跡などもそれに関連しているのではないかと思われる。 だがそれを示す証拠がないので、何とも言えない…

おまけ 県道脇の古い石橋 #

先の広場から県道ゲートまでは、短いながら現道に沿って荒れ果てた旧道が存在している。 そしてここには廃道となった石橋が存在している。

廃道石橋1

廃道石橋2 似たような二本の橋が現存していた。橋の名前などは残念ながら風化と雑草のために読み取ることが出来なかった。